投稿・寄稿記事
全国漢詩名跡を行く
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静岡県三島市は、古くより宿場町、三島大社に抱かれる門前町、そして富士の湧き水のめぐみなどで人々に知られ、親しまれてきたまちです。その三島の駅前からほど近くの小さな溶岩あとの緑地に、一風変わった石碑が立っています。頭部がまるで農民のすげがさのようなそれが、「三島竹枝碑」です(写真①参照)。
じつはこの石碑こそは、日本竹枝詩(詞)史の掉尾を飾る、悲運の漢詩人杉田呑山(1854~1945)と、漂泊の果ての滞留地三島の人々との暖かい交情のあかしなのです。
三河の国吉田(現在の豊橋)の老舗の魚問屋に生まれた杉田呑山(本名六衛、通称六江)は、少年時代に小野湖山から漢詩の手ほどきを受け、若くして東京で中村正直の門下になり、森春涛、大沼枕山らに嘱望されます。豊橋魚市場の社長をつとめるなど一旦は実業家の道を歩むものの、壮年期からの漂泊の思いが押さえがたく、漢詩、詩吟、書、日本画、茶道、日本建築、庭園等の風雅の道を歩み、長者番付常連だった財産をすりつぶします。晩年は東京市本郷区森川町の寓居に住みました。
若いときから漢詩集の発刊を企てるものの、父の死や関東大震災などのため延期に延期を重ね、やっと『東京雑吟』以下三部を初出版した80歳時は、明治初期の漢詩全盛時代から遠く隔たり、時代に埋もれつつありました。
しかも直後に愛妻に先立たれます。これを機に昭和8年より三島に本格的に滞留し、地元の名士や将来を期待された青壮年が続々と集い、翁に詩書、詩吟、画、茶等を学んだのでした。
そしてついに、三島の伝説、人情、風俗を描き抜いた名作『三島竹枝』を昭和9年5月27日付けで発刊するのです。
(余談ですが、発刊直後の夏、若き帝国大学生、太宰治が三島に滞在し、名作短編「満願」のモデルの産婦人科医、今井直さんと、三島の紅灯の巷を満喫しました。今井さんは呑山の愛弟子であり、呑山先生を紹介したはずです。太宰が三島滞在中に執筆した小説「ロマネスク」に登場する書道の老先生は、呑山先生がモデルであろうと、私は推測しています。写真②参照。)
「三島竹枝」の巻頭詩をご紹介しましょう。
| 芙蓉白雪渙朝陽 | 芙蓉の白雪 朝陽に渙し |
| 三嶋女郎要靚妝 | 三島の女郎 靚妝を要す |
| 曩昔驛夫行唱去 | 曩昔 駅夫行くゆく唱い去る |
| 宿煙殘月暁蒼々 | 宿煙残月 暁に蒼々たり |
(平声「陽」韻)
これはまさしく一世を風靡したノーエ節(農兵節)を念頭に置いています。そのもと歌は次のようなものです(白糸公園内歌碑による)。
「富士の白雪朝陽で溶ける 三島女臈衆の化粧水」
右の歌やノーエ節を素材とし、三島の女性への親愛を込めて、件の巻頭詩をものしたのでしょう。かつての宿場のにぎわいの中、駅夫(人足)が往来しながら、
「ふじのしらゆきゃノーエ」
などと粋に愛唱した歌声が、心に響いてくるかのようです。
この漢詩集「三島竹枝」は、昭和初期に発刊された『日本竹枝詞集』という名詩選集に大正、昭和期を通じて唯一選入され、その秀逸ぶりがうかがえます。
門人たちと呑山翁との麗しい交情はその後も続きましたが、おりからの戦局の厳しさゆえに翁が郷里に帰ることとなり、別離の時が近づきます。そこで、呑山翁90歳の昭和18年5月25日、三島吟社の門人達が呑山への感謝をこめ、『三島竹枝』の本そのものを埋葬し、その上に築いたのがこの詩碑なのです。
一見奇妙な頭部の石は、「農兵」の象徴だとさとられましょう。詩碑は今日も、市民いこいの楽寿園脇の愛染院跡に立ち、呑山翁とともに三島市民を見つめ続けています。
取材日の2月7日は、時まさしく杉田呑山先生の祥月命日でした。人情や風俗、はたまた男女の情愛の機微まで織り込んだ竹枝詩(詞)は、日本が誇る独自の日本漢詩の精華です。その竹枝詩史の掉尾を飾った杉田呑山翁に、深い共感と感謝を捧げ、60周忌の冥福を祈るばかりです。 合掌
付記 今なお、三島の人々は呑山先生を慕い、勉強会が開かれています(呑山研究会)。
全国の漢詩・漢文ゆかりの地をめぐり、文章と写真で紹介をつづけることになりました。紹介したい石碑・名跡があれば、ご一報ください。