全日本漢詩連盟 The All Nippon Classical Chinese Poetry Association

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(2007年04月01日)

わたしの漢詩作法(5/6)

2006年 松山漢詩大会入賞者

22歳の青年の交遊

<愛媛県知事賞> 竹内 淳実
子規與漱石
邂逅向陵情意敦 向陵[こうりょう]に邂逅[かいこう]
情意[じょうい][あつ]
唱酬踐漢琢詩魂 唱酬[しょうしゅう][かん]を践[ふ]
詩魂[しこん]を琢[みが]
俳箋文策涵伊豫 俳箋[はいせん]文策[ぶんさく]
伊予[いよ]に涵[うるお]
此地無消洗硯渾 [こ]の地[ち][き]ゆる無[な]
洗硯[せんけん]の渾[こん]

望外の受賞であった。この詩は二人の友情と今に生きる遺徳を圧縮した散漫な出来である。詩の行間を汲み取って頂いたものと感謝したい。

一昨年紹興にある蘭亭を訪ねた。『紅衛兵が押し寄せた時、ここにいた医師たちは、蘭亭碑を石灰で塗りつぶして漆をかけ、その上に毛沢東語録を書きました。紅衛兵もこれを見て喜び、ここは破壊しませんでした』というガイドの名調子が印象に残った。1700年前の騒人の遺徳は文革時ここで働く医師たちにも活きていた。また鵞池は王羲之の時代筆硯を洗っていつも濁っていたとも聞いた。

子規の『七草集』をきっかけとした22歳の青年の交遊は、忽ち「始被佳人呼我郎」「清風名月伴漁郎」と唱酬し漱石の『木屑録』に結実するまで僅か4か月である。ここに凝縮された友情が二人の原動力となったのだろう。

大会前日道後を散策して気がついたことがある。諧謔に富んだ「坊ちゃん」を大らかに受け止めた松山の風土である。義安寺の姫達麿、寳厳寺の一遍上人、伊佐爾波神社の算額と文学に留まらない文化の広がりがあった。

大会には、この松山の風土を活かしきった伊藤竹外先生の熱意と行動力が満ち溢れていた。

大会終了後伊藤先生に次詩を呈上、一粲に供した。楽しい大会有難うございました。

次伊藤竹外先生大会書感韻
先人韻事汎伝承 先人の韻事汎く伝承し
三道一如方喚朋 三道一如方に朋を喚ぶ
賦詠清吟雅懐舞 賦詠清吟雅懐の舞
春風秋月毎追鵬 春風秋月毎に鵬を追わん

人生の勝利者を詠む

<松山市長賞> 東條 節子
懐山内一豊妻千代
登來苔磴映朝陽 [のぼ]り来[き]たる苔磴[たいとう]
朝陽[せきよう]に映[えい]
樓閣聳天誇我郷 楼閣天[ろうかくてん]に聳[そび]えて
[わ]が郷[きょう]を誇[ほこ]
但使武人能勝戦 [ただ]武人[ぶじん]をして
[よ]く戦[たたかい]を勝[しょう]せしめては
絶佳匡弼顕勲光 絶佳[ぜっか]匡弼[きょうひつ]
勲光[くんこう]に顕[あき]らかなり

課題の中から私は『四国の先哲』を選びました。漢詩作りを始めて2年余になりますが題材について考えあぐねているうちに瞬く間に時は過ぎ友人達の作品が次々と仕上るのを目の当たりにすると焦るばかりで指導下さっている先生にご心配をおかけしました。

私は、苦しまぎれに単純な発想から今年はNHKの大河ドラマ「功名が辻」で土佐の国は盛り上がっているので一豊と妻千代にしようと決め漸く取り掛かりました。一豊の事は槍の達人で戦を運よく勝ち抜いた武将という位の知識でしたが千代の事は良妻賢母で妻の鏡と言われ内助の功のすばらしさは知り尽くされており私も女性として少しは見習わなくてはと思っているのですが…。

夫婦力を合せ戦国の世を生き延びてきた千代の働きぶりのすごさは永く時代を経ても絶対に忘れ去られることはなくいつ迄も語り継がれることと思います。

ご指導頂く漢詩作法について二句一章となる重要性を考え結句の三文字の備わりが余情を醸す味わいをと教っておりますので千代の内助の功のなんと深きことを思い「顕勲光」として平起式下平声七陽韻と決めました。

そして転句で一豊の勇姿や人生の勝利者としての生きざまを詠み又、起句と承句は景色や情景をよむこととして高知城の苔むした石段が朝陽に映える様子と、大高坂山の濃い松の緑の上に品よく聳えるその偉容が、一豊と千代と共に私達高知県民にとり誇りなのだと思い力を込めました。

此の度思いがけなく特別賞受賞の栄誉を得て、まったく夢の様な時を過し、斯道に御縁をもつことができました事に心から感謝申し上げる次第でございます。これからも漢詩文化を更に学ぶべく一生懸命精進いたし諸先輩や皆様のご教導を頂きながら一層この道を楽しんで参りたいと存じます。


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